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日本の天皇について

作成者 Chieko、公開日 19/09/2019 Blog > アート・趣味 > 旅行 > 日本の天皇について

日本への旅行長期滞在を検討している場合、国の歴史について学ぶことは日本の伝統、社会機構、文化を理解する上で大きな役に立ちます。

伝統や文化を理解すれば、儀式やしきたりを目撃した時に日本人から無礼だと思われるような過ちや誤解を避けることができます。

天皇の役割

日本の天皇は国民から敬愛されていますが、行政執行権は持っていません。

1947年に執行された日本国憲法によると、天皇は日本国の象徴とされていますが、英国のエリザベス2世と同様にその義務は国事行為に限定されています。

現在皇位に就いているのは第126代徳仁天皇です。日本の皇室は世界で最も歴史が古い皇族です。

日本の歴史において、天皇は常に日本政府の実権を握っていたわけではありません。

第125代明仁天皇は1989の即位以来、自身の高齢と健康上の問題を理由に長男の徳仁氏に位を譲りたいという意思を公にしてきました。この譲位問題については、国内でもかなりの論争が起こりました。最後の譲位は1817年にまでさかのぼります。日本政府と国会は明仁天皇が退位するために特例法を通過させなければなりませんでした。

退位の儀は2019年4月30日に執り行われました。

米国の前大統領バラク・オバマ氏は、2014年の訪日時に日本の天皇皇后両陛下、徳仁皇太子、総理大臣安倍晋三氏と皇居での歓迎式典に参加しました

立憲君主制

英国と同様に、日本は1889年の大日本帝国憲法公布と1890年の帝国議会開会から君主制を導入しています。当時は絶対君主制でしたが、第二次世界大戦後の立法・行政・司法の三権分立制の誕生により、天皇は国事や儀式以外のあらゆる権威を失いました。

日本の国会は両院制で、上院と下院から構成されています。下院は衆議院で、上院は参議院です。日本では両議院は選挙により選ばれた議員から構成され、任命または世襲による英国の貴族院とはこの点で異なります。

現在の内閣は明治時代から第98代で、現在は安倍晋三氏が2017年の解散総選挙から第4次安倍内閣を率いています。

前イギリス首相テリーザ・メイと総理府で談笑する日本の総理大臣安倍晋三氏

日本の皇室の歴史

古代と中世の日本

日本の皇室は世界最古ですが、その起源は伝説と逸話に基づいているため、歴史家も裏付けをとれません。

年代がわかるようになったのは第29代欽明天皇の時代からなので、この王朝の最初の1200年間は検証することが不可能です。

539年まで続いたこの時代は、しばしば「古代日本」と呼ばれています。

欽明天皇の治世から1185年までが日本の中世です。

この時代に中国や韓国から伝わった仏教や道教による政治、芸術、社会の変革が起こりました。

この国が「日本」と呼ばれるようになったのはこの時期で、この呼称は現在も使われています。

当時、天皇と朝廷は、国の権力の中心でした。

この体制は将軍という新しい力が台頭してきたことで変わりました。

源頼朝は、平家討滅後、日本最初の幕府将軍となりました

中近代の日本

1185年、源頼朝は平家を京都から追放して、実質上の政権を握りました。

源氏一族の台頭は、国の統治における朝廷の怠慢が原因でした。貴族は武家による軍事力の確立を認識できず、この後700年も武家政権が続くこととなります。

中世では、日本最強の一族の頭首である将軍が国の大半の実権を手中にしていました。将軍は忠実な臣下に領地を分配して、地方を治める大名に任命していました。

この間、天皇はかろうじて権威を維持していました。

中世の幕開けは、侍として知られる武家政権の始まりでもありました。社会階級は武士から構成され、武士たちは国で最高の権力と名誉を求めて争いました。

多数の将軍や支配階級が、400年もの間並立しました。

15世紀末には、武力衝突と政治的混乱が国中に広まりました。戦国時代と呼ばれる中世の混乱の時代は140年近く続きました。

徳川家康は日本に250年以上も平和と安定をもたらす江戸幕府を創設しました

戦国の世から、織田信長と豊臣秀吉というふたりの戦国大名が頭角を現しました。ふたりは日本を統一した天下人となりました。

豊臣秀吉は百姓の出身で、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった戦国大名織田信長直属の軍で足軽としてスタートしました。

信長と秀吉は他の大名との和睦または武力による奪還により本州の大半を攻略しました。

ふたりとも将軍の座に就くことはありませんでしたが、徳川家康と並び日本の統合を進めた名武将として認識されています。

最終的に、日本最高位の将軍の座にのぼりつめたのは、同時代の武将で豊臣・織田側についていた徳川家康でした。

1600年、豊臣側の大名から構成された西軍と徳川家康を中心とした東軍の間で繰り広げられた関ヶ原の戦いは徳川の勝利に終わり、絶対的な権力を手にしました。大阪城包囲と豊臣一族の滅亡後、徳川一族は260年にわたり、過去に例のない太平の世を治めました。

この260年の大半で、日本と徳川将軍家は鎖国政策を実施しました。 この鎖国政策では、外国との商業や交際に対して厳格な規制が適用されました。中国との外交は引き続き盛んでしたが、中国人の商人や駐在人すら長崎の出島に隔離されました。

日本が欧州との貿易を開始した時、オランダ人だけが長崎への出入りを許可されました。

日本国民、武士、華族でさえ将軍の許可なしでの渡航は禁止されていて、違反した場合は死罪が科せられました。

これらの厳格な法は、主にスペインやポルトガルのカトリック宣教師たちの影響力の増加に対抗するために設定されました。将軍家では、カトリック教師たちを日本の宗教制度や平和を脅かす不穏分子と見なしていました。

将軍が米国のペリー司令官と重装備の黒船に開国を迫られ、やむなく鎖国政策を解除したのは1854年3月のことでした。続く砲艦外交により、日本は西欧諸国と条約を締結しました。この条約は強制的な取り決めによる産物で、不平等な内容でした。

海外に弱さを見せたことが、徳川将軍家の終焉のきっかけとなりました。

日本の鎖国政策を強制的に解除させた米国海軍司令官マシュー・カルブレイス・ペリーの銀板写真

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明治維新

日本は西欧諸国に遅れをとっていることを多くの大名が実感し、海外諸国に日本を占領されないために今こそ王政を復活させる時だと考えました。

1866年、有力だった薩摩藩と長州藩は薩長同盟として知られる盟約を結び、王政復古を進めることになりました。

戊辰戦争時代の長州藩の侍

1867年の孝明天皇の崩御後、息子の明治天皇が即位しました。その直後、大名や朝廷からの圧迫に屈し、第15代将軍徳川慶喜は政権を返上し、自分の特権を天皇に委ねました。

1906年にアーサー・オブ・コノート王子が明治天皇にガーター勲章を奉呈して以来、英国と日本の皇室は親密な関係を維持しています

これは700年にもおよぶ武家支配の後の実質的な大政奉還でした。

旧大名の領地は天皇に戻され、現在日本の都道府県として知られる形になりました。

侍が新しい制度に慣れるか、新たに編成された大日本帝国陸軍に討伐されるまで数年がかかりましたが、1877年の西南戦争の後、ようやく日本に平和が訪れました。

明治維新により日本は近代に突入しました。社会改革、経済の変化、技術の進化により、日本は島国の小国として見下されていた西欧諸国にすぐに追いつきました。

1905年までには急速な産業化と近代化により、日本はアジア最強の軍事力と経済力を誇る国になっていました。日本は1990年代に中国に追いつかれるまで、この地位を維持していました。

日本独自の文化

日本は常に海外を魅了し、時に驚かせます。海外の人は日本に無関心ではいられません。きっと、これが毎年3000万もの外国人が日本を訪れる理由でしょう。

過去の日本の鎖国政策は、日本が先進国の中で移民率が最も低い原因のひとつでしょう。日本在留外国人の割合はたった1.9%で、これは英国の13.2%や米国の14.3%と比較してかなり低い割合です。在留外国人の大半は、韓国出身の長期滞在者です。

現在、日本には約15,000人の英国人が生活していて、その内の5,000名以上が東京在住です。

日本の体系的な生活や文化のルーツは、その歴史にあります。それを最も体現しているのは和食です。

伝統的な日本の温泉旅館に泊まる機会があれば、日本の伝統料理である和食を味わえるでしょう。何世紀にもわたる社会や経済の変化を経て形成された食文化は日本でも尊重されていて、ユネスコ無形文化遺産にも登録されています。

日本の歴史は、その起源から常に天皇と共にありました。これが、現在でも日本人が天皇を日本文化と遺産の象徴として考えている理由のひとつと言えるでしょう。

1902年に日英同盟が結ばれ、ふたつの帝国間の関係が強化されました

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