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フランスについての面白い事実:フランス帝国

作成者 Nana、公開日 15/03/2019 Blog > 言語 > フランス語 > フランス帝国の事実

フランスは、イギリスがとても愛する国。その一方で、イギリスが嫌う国でもあります。愛される理由は、その料理とファッション。嫌われる理由は、フランス帝国とイギリス帝国の間で多くの戦争があったためでしょう。けれど、フランスはどのように帝国として這い上がったのでしょうか?以下で、その問いにお答えしています。フランスについての面白い事実もチェックしてみてください。

フランス植民地帝国:第一の試み

フランスはその歴史上、王が統治する王国であった時代がとても長かった国です。最初のフランス国王は、5世紀に生きたフランク人のメロヴィクスであったと言われています。しかし、その当時中央ヨーロッパの大部分を支配していた(例えば、カール大帝のころ)にも関わらず、帝国と名乗るようになったのはナポレオンの時からです。

フランスは多くの植民地を支配する強国として存在。最初の植民地化の波は、主に17世紀に起きました。

ヌーベルフランス(ニューフランス)

16世紀、アメリカ大陸の発見後、スペイン人による誇大な騒ぎに便乗し、フランスも及び腰のまま、何回か新世界での植民地化試みます。フランスは1605にアカディア(後のカナダ、ノバスコシア)の新しい土地にポート・ロイヤルを設立。これが最初の真の植民地でした。

3年後の1608、サミュエル・ド・シャンプランがケベック植民地を構築。ケベックは、ニューフランス植民地の首都となり、主に毛皮貿易で栄えます。フランス人探検家らがセントローレンス川沿いの西へ、次に、五大湖と川を経由した南へと領土を広げ(1699に、ミシシッピ川西の広域を含むルイジアナの所有権を主張)、川沿いに新たな商館を設けます。しかし、フランス人は農業を確立させるよりも、地元の民族との毛皮貿易のネットワークを築くことに力を入れていたため、このアメリカの植民地で大幅に人口が増えるということは一度もありませんでした。

赤道の南

西インド諸島では、1625セントキッツ(フランスとイギリスが領有権を分かち合った島)に植民地を築いたのが最初でした。1635リシュリューがカリブ海諸島を支配しタバコプランテーションを築くため、無力であったセントクリストファー会社に代わる北アメリカ会社を設立します。影響が及んだ国には、サン=ドマング(フランスがスペインと分割し、それぞれの領土は後にハイチおよびドミニカ共和国となる)、クアドループ、マルティニークがありました。北アメリカでフランスは現地人とカリブ海のプランテーション運営に取り組み、最初はタバコ、後にサトウキビを対象としました。これは、現地の人の奴隷およびアフリカの奴隷貿易にほぼ頼った形行われていました。実際、連続的に反乱が発生して民族浄化の動きへと繋がり、1660年にはカリブ海の住民が虐殺され、マルティニークの島民がほぼ絶滅したと言われています。

リシュリー ルイ13世の宰相を務めたリシュリューが北アメリカ会社を設立した。

現地人とその他の植民地支配国の間で数多くの争いがあった後、1676以降、今のフランス領ギアナ(ブラジルの北)に植民地が築かれました。

アフリカへの最初の襲撃

1664セネガル沿岸に商館が建てられてたことが、フランスによるアフリカ植民地支配のはじまりでした。フランスは主にアフリカ内地からの奴隷を、カリブ海の植民地に送りました

フランス東インド会社は1665年、レユニオンモーリシャスでの植民地構築に成功(ただし、フランスはこれより前に領土所有を主張している)。これらの場所は、東行きの船の供給地点として機能しました。1719までにフランスはインドに最初の足場を築き、さらに、ムガル帝国の崩落を上手く利用し、インド現地の対イギリス派支配者を支援しました。

最終的に敗退したフランスは、ポンディシェリチャンダンナガルのみ所有権を維持。そのどちらも1954年に、独立国となったインドに統合されています。

最初の植民地帝国の敗退

ユトレヒト条約は、アメリカにおけるフランスの植民地にとても重要な影響を及ぼしました。この条約の主な目的は、ハプスブルク家のチャールズ2世による王位継承失敗をうけ、スペインのその後の継承を規定することでした。この条約でルイ14世の孫にスペイン王位が認められましたが、フランスのいくつかの植民地の所有権が変わることになります。例えば、ハドソン湾近くのニューファンドランドとルパート・ランドは、イギリスに譲渡されました。

その後百年以上、フランスは主に戦争に負けたことが理由で、植民地の大部分を少しずつ失っていきます。オーストリア継承戦争 (1744-1748)、アメリカではフレンチ・インディアン戦争と呼ばれる七年戦争 (1756-1763)、そして、フランス革命 (173-1802) により、フランスはカナダカリブ海の大部分の領土をイギリス帝国に譲ることになります。ルイジアナは、1762年に秘密裏に結ばれたフォンテーヌブロー条約により、スペインに譲渡されます(ただし1800年に、これもまた秘密イルデフォンソ条約により、フランスがスペインから再度購入)。

フランス第一帝政:ナポレオン・ボナパルト

フランス革命の後、アンシャン・レジームの崩壊をうけ、フランスは適切な政治のあり方を見つけようといくつかの体制を繰り返します。恐怖政治の後、総裁政府は帳尻を合わせようとしますが、ナポレオン・ボナパルトがブリュメール18日のクーデターで総裁政府を打倒(実際には1799年11月9日だった)。三人の統領から成る統領政府が立ち上げられ、ナポレオンは第一統領になります。1802にイギリスとアミアンの和約が結ばれると、ナポレオンは生涯の統領となることが投票により可決されます。

ナポレオン 征服による統治でよく知られるナポレオン1世は、実はメートル法を導入した人物。写真提供:Fæ(Visual Hunt)

その間カリブ海では、元奴隷のトゥーサン・ルーヴェルチュールが率いるハイチでの暴動により、ナポレオンは1803、アメリカへのルイジアナ領土の売却を強いられます。これによりフランスの植民地が大幅に削減されました。

1804年、国会はフランスを帝国とする法案に可決し、ナポレオンが皇帝に在位します。12月2日に戴冠式が執り行われました。

フランス帝国の全盛期

ナポレオンは、総裁政府の下で征服開始します。対象となったのは以下の地域でした。

  • イタリアの大部分
  • スイス
  • オランダ
  • ベルリンからライン川西岸に至るまでの領域

第一統領であるナポレオンはイタリアの征服を続け、ライン川流域を超え、ドイツ北西沿岸のハノーバーとクックスハーフェンまでフランスの領土を広げました。
皇帝の座についてからは、ドイツ西部の大部分バイエルン、バーデン、ヴュルテンベルク、ザクセンの各州)を併合し、スペインの征服に着手します。

困難と失脚

ナポレオン皇帝に対するスペイン人からの反乱が強まり、フンタと呼ばれるゲリラも発生します。数年のうちに、ナポレオンはイギリスのウェルズリー(ウェリントン公爵)に撤退を迫られることに。その間、プロイセンは秘密裏に同盟を築いていましたナポレオンははじめアウステルリッツの戦いで勝利しますが、元同盟国であったロシアが間もなく対フランスの連合軍に加わると公表。ナポレオンは1812年にロシア戦役を開始します。しかし、その間も軍隊の大部分がスペインでの反乱の対応に追われていました。

優れた軍事力を発揮したものの、ナポレオンは何度も後退を迫られ、1814年、パリは敗北を表明します。ナポレオンは4月に退去し、ナポレオン戦争が終結します。

ナポレオンはエルバ島に追放されますが、1815年、新しい「7月王政」の王であるルイ18世(ルイ16世の弟)に対して、クーデターを試みます。その後百日間ほど統治しますが、ワーテルローの戦いで敗北。今度はセントヘレナ島へ追放され、1821に死去しました。

フランス第二帝政:ナポレオン3世

ルイ18世による王政復古の後、彼が1824年に死去すると、弟のシャルル10世が即位します。シャルル10世が1831年に退位すると、ルイ・フィリップ(ルイ16世のいとこ)がフランス国王に選出されます。

1848年の革命の後、ルイ・フィリップは退位し、孫に王位を譲りますが、政府により王政は廃止され共和政が返り咲きます。政府は、ナポレオン1世の甥であるナポレオン3世をフランス初の大統領に選出します。しかし、この政体では大統領二期を務めることができなかったため、彼は1851年にクーデターを起こし、1852年にナポレオン3世の名で皇帝に即位し(叔父のナポレオン・ボナパルトと同じ12月2日に)戴冠式を行います。

ルイ・フィリップと孫 ナポレオン3世の時代は、建築および装飾の芸術が栄えた(エジプト風のものもあった)。写真提供:Boston Public Library(Visual Hunt)

ナポレオン3世は、最後の普仏戦争となったセダンの戦いでドイツに降伏する1870年まで君臨します。

こちらでフランスに関する事実をさらにご紹介しています。

フランス植民地帝国:第二の試み

ナポレオン戦争終結後、イギリスは以下を含む海外領土の大部分をフランスに返還します。

  • フランス領ギニア
  • セネガルの商館
  • インドの植民地

しかし、セーチェルモーリシャスはイギリスが併合します。

シャルル10世はハイチ所有権を回復しようと試みましたが、最終的に独立を認めます。ただし、独立の際はハイチに対し、フランスのプランテーション経営者に賠償金を支払うように強制しました。

1830、アルジェの太守とフランス領事の間で揉め事があり、フランスはアルジェリア侵略を決行。しかし、完全に征服したときにはすでに1847年になっていました。

その後、ナポレオン3世の統治下で、フランスの膨張主義が返り咲きます。今回の対象はヨーロッパではなく、植民地でした。ナポレオン3世は、ニューカレドニアおよびコーチシナベトナム南部の地域)に植民地を築き、カンボジアの一部を保護国とします。さらに、アフリカの植民地化も進め、セネガルの商館から奥地へ進み、西海岸沿いを植民地化します。1848奴隷禁じられますが、それに変わり、新たなアフリカの植民地では、アラビアガム、ピーナッツ、バンバラマメのプランテーションに力を入れるようになりました。

ナポレオン3は南アメリカへの領地拡大も試みます。ベニート・フアレス率いるメキシコ臨時政府が、転覆した政府の外債支払いを拒むと、それを不満とするフランス、イギリス、スペインが武力干渉に踏み出します。フランスはさらに、マクシミリアン(オーストリア皇帝の弟で、ベルギー国王の娘婿)をメキシコ皇帝に即位させます。しかし、メキシコの抵抗はまもなく勢いを増し、ナポレオン31866援護を停止。マクシミリアーノ1世は、一年後に処刑されています。

メキシコ皇帝とその王妃 メキシコ皇帝マクシミリアーノ1世とその王妃カルロータ(シャルロッテ)。写真提供:Luisalvaz (Own work) https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons

脱植民地化

第一次世界大戦でフランスが植民地の役割を認識しなかったため、植民地で異議を持つ人が増えましたが、フランス政府はいかなる政策も講じませんでした。しかし、第二次世界大戦が終わると、フランスは植民地の自治権認めるようになります。1946DOM(海外県)が形成され、フランスに残ることを希望する特定の植民地に、本土のフランス市民と同等の権利が認められました。以下は、DOMとなった植民地です。

  • グアドループ
  • フランス領ギアナ
  • マルティニーク
  • レユニオン

その他の植民地はTOM(海外領土)となり、現地の法律および限定的な自治権を有すものの代表権は多くない半独立状態となっています。時間の経過とともに、TOMは独立を獲得するか、DOMとなって(2011年、マヨットなど)います。2003、一箇所(インド洋および南極の無人の領地)を除き、全てのTOMが半独立の海外地域圏となりました。

  • サンピエール島・ミクロン島
  • ウォリス・フツナ
  • フランス領ポリネシア
  • マヨット(2011年に海外県となる)

フランスの脱植民地化は、全てが平和裏に行われたわけではありません。1947年、マダガスカルで一年にわたる反乱が勃発した上、アルジェリア戦争 (1954-1962) の衝撃は、今でも両国に残されています。

フランス帝国の残した影響により、フランス語は30カ国で公用語となっています。関連記事を読んでみてください。

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