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スペインの歴史

作成者 Chieko、公開日 18/06/2019 Blog > 言語 > スペイン語 > 一目でわかるスペインの歴史

カトリック君主制やスペイン内戦など、スペインの歴史は波乱に富んでいます。アンダルシアからカンタブリアまで、イベリア半島は現在の形になるまで幾多もの試練を乗り越えてきました。

神聖ローマ帝国の時代にスペインの存在がなければ、ヨーロッパは現在のような体制になっていなかったでしょう。

この記事では、古代のフェニキア人による植民地化から、最近までのフランコの独裁政権と、その間の重要な出来事について、スペインの歴史をまとめていきます。

古代スペイン:ローマ属州ヒスパニア

前期旧石器時代、スペインにはネアンデルタール人が住んでいましたが、紀元前2千年紀になると、フェニキア人やギリシャ人が入植してきました。この時期、スペイン北部にはケルト人が住んでいました。

ローマ競技場 スペインには、エストレマドゥーラ州メリダのローマ競技場など、ローマの遺跡がまだ多数残っています(出典:Luisfpizarro)

紀元前3世紀になると、カルタゴ人がローマとのポエニ戦争で攻め込まれ、領地を拡大しました。ここで、ハミルカル・バルカがバルセロナを設立しました。

彼はローマ軍に敗れましたが、息子のハンニバルが舵を取り、紀元前219年にサグントを奪還し、第二次ポエニ戦争に突入しました。ローマはこの戦争と続く第三次ポエニ戦争にも勝利して、紀元前206年にスペインにイタリカという都市をつくりました。

当時ヒスパニアと呼ばれていたスペインは、多数の土着民を除いてはローマ人ばかりでした。カエサル・アウグストウスが知事に任命される前の紀元前77年に、ポンペイウスがヒスパニアの統治を任されました。

紀元前19年にスペインは統一され、ローマの属州となりました。この広大な領地は、特に大きな問題もなく統治され、史学者により地図に掲載され研究の対象となりました。

5世紀には、ローマ帝国はゴート族の脅威にさらされることとなります。西ゴート族は、415年に最初にスペインを征服しました。西ゴート族は定期的にローマ軍と衝突を繰り返しました。

475年に、西ゴート国王エウイックが、和平を望むローマからガリアの一部を譲り受けました。これと476年のラヴェンナの陥落が、ローマ帝国の衰退につながりました。

古代の終末期までに、スペインは西ゴート族の規制下に置かれ、異教徒がイベリアの領地を支配しました。

詳細は、「スペインについての基礎知識」をご覧ください。

 

イスラム帝国とカトリック勢力から構成されたスペイン中世

477年、西ゴート王国は、スペインを手中に収めました。彼らの戦略は戦争を基本としていましたが、スペインを占領していた時代には一定の治安を提供しました。

スペインの古城 他の欧州諸国と同様、中世スペインは常に戦の体制にあったため、多くの城が建てられました(出典:jackmac34)

 

6世紀初頭には、西ゴート族はクロビスによりガリア南部から追いやられ、スペインに集中することになりました。554年、西ゴート王国はスペイン南部をビザンツ帝国に譲り渡しました。

ゴート族は、アリウス派を信奉していました。アリウス派は、イエスは神性を備えた人間で一種の半神であると信じている点で、キリスト教と大きく異なりました。587年、西ゴート王レカレド1世はアリウス派を捨て、キリスト教に改宗しました。

654年は、西ゴート王国にとって重大な年でした。西ゴート王国初の法律であるリベル法典が公布されたのです。

西ゴート帝国はサラセン人に敗北した後、711年に滅亡しました。これはスペイン王国が独立した時期であり、この独立は1474年まで続きました。

イスラム勢力のウマイヤ朝の侵攻は732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで、カール・マルテルにくい止められたことで終わり、ウマイヤ朝はスペインに定住することにしました。

最初のイスラム帝国は、756年にアブド・アッラフマーン1世におってコルドバに建てられました。476年に西ゴート王国に占領されたナバラ王国(首都パンプローナ)は、8世紀にはムーア人が支配し、それから778年にシャルルマーニョにより追いやられました。

スペインにおけるレコンキスタ(国土回復運動)は、アルフォンソ3世により開始され、868年と878年にそれぞれポルトとコインブラを奪還した後、カスティーリャ伯ディエゴ・ロドリゲス・ポルセロスなどの子孫が後を継ぎました。

しかし、アブド・アッラフマーン3世がカリフとして即位すると、941年にサラマンカをイスラム勢力のもとに奪還すると、985年にはバルセロナ、997年にはサンティアゴ・デ・コンポステーラも略奪しました。サンティアゴ・デ・コンポステーラは1022年にアル=マンスールにより滅ぼされました。

1031年、フェルナンド1世(カスティーリャ王)はレオンを併合して、1055年にイスラム帝国からのレコンキスタを開始しました。1072年には、アルフォンソ6世がレオン王国の王となり、その後に征服や継承によりトレドとガリシアの王としても即位しました。こうして、スペイン王国は再結成の道をゆっくりと進んでいきました。

アルフォンソ6世はロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール(通称エル・シッド)に1094年から5年間、バレンシアの統治を任せました。1102年にはアルモラビデがこの都市を再び奪い、翌年にアル=アンダルスを再統合しました。

12世紀のイスラム勢力の勝利としては、ウクロス(1108年)、サラゴサ(1111年)、およびバルセロナ(1114年)の占領が有名です。

1118年以降、キリスト教徒たちは再び領土の奪取を開始します。1128年にはポルトガルが独立しましたが、最初の王アルフォンソ1世が即位したのは1139年になってからでした。

13世紀には、イスラム勢力とキリスト教徒は定期的に対戦しましたが、カスティーリャとアラゴン王国は、下記の地域で勝利しました。

  • マヨルカ島(1229年)
  • イビザ(1235年)
  • コルドバ(1236年)
  • バレンシア(1238年)
  • ハエン(1246年)
  • セビリア(1248年)
  • ムルシア(1265年)
  • シチリア(1282年)

スペイン中世は、カスティーリャ女王イサベル1世と史実に名高いアラゴン王フェルディナンドを頭首とするカトリック教徒の完全勝利で幕を閉じました。

スペイン語を上達したい方には、スペインの人気TV番組の視聴をお勧めします。

 

植民地化と退廃に満ちたスペイン近代史

1492年はレコンキスタが完了した年であると同時に、カスティーリャとアラゴン王国がクリストファー・コロンブスの遠征資金を出した年でもありました。彼はその年末に、イスパニョーラ島に上陸しました。

コロンブスの像 クリストファー・コロンブスの世間的評価は様々ですが、スペインの歴史において重要な役割を果たしたことは間違いありません(出典:eminens)

 

スペイン帝国は拡大を続け、黄金期に突入しました。1494年、スペインとポルトガルはトルデシリャス条約に署名して、新世界をふたつに分割しました。

同年、カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルディナンドは、ローマ教皇アレクサンドル6世から、カトリック両王の称号を授けられました。イサベルは長期にわたる実り多い治世の後、「狂女」と呼ばれ幽閉されることになるカスティーリャ女王フアナを残して1504年に死去し、フェルディナンドが王国を支配しました。

フェルディナンドが1516年に逝去すると、ハプスブルク家のカルロス1世がスペインに入国しました。エルナン・コルテスがメキシコに上陸した1519年に神聖ローマ帝国の皇帝が亡くなり、カルロス1世はローマ皇帝カール5世になりました。

翌年、スペイン人は現地の住民たちによる大規模な反乱の後、アステカの首都であるテノチティトランを去りました。これにより、スペイン人はアステカの住民に対する憎悪を募らせました。

アステカ人を懐柔できなければ武力で従わせようと、1521年にコルテスはテノチティトランを包囲しました。スペインへの帰国後、コルテスは現地の住民を虐殺した英雄として迎えられました。

カール5世の統治期間には、下記のような重要な事件が起こっています。

  • カール5世とフランスのフランソワ1世との確執
  • カール5世とヘンリー8世との対立と同盟
  • カール5世とポルトガル王女イサベルとの結婚による領地拡大
  • 教会大分裂中の、対立教皇クレメンス7世への土地の譲渡
  • フランシスコ・ピサロによる、インカの首都クスコの制圧
  • ネーデルラントの反乱と、スペインや皇帝からの命令による鎮圧
  • カール5世の退位とフェリペ2世の即位

マドリードがスペインの首都になったのは、1561年のことでした。

近世史はフランス、スペイン、オランダ共和国、オスマン帝国間での幾多の戦争により彩られています。スペインの無敵艦隊は、1589年にイギリス海軍により敗れました。

フェリペ2世の死後、スペインは17世紀に衰退していきますが、セルバンテス作『ドン・キホーテ』をはじめ、芸術は繁栄の一途をたどりました。それでも、経済、外交、政治面ではスペインは弱体化しました。

フェリペ5世の即位が承認されたのは、スペイン継承戦争(1701-1713年)が終結した後でした。この時には、スペイン政権は既に他の国々に対する王位継承権を主張できる立場にありませんでした。それでも18世紀に入ると、経済と貿易は回復の兆しを見せました。

スペインの偉人に関しては、「スペインの著名人」もご覧ください。

 

フランコ政権から民主主義までのスペインの現代史

スペインの現代史は、フランスに対する反革命戦争で幕を開けました。その後、スペインはナポレオンに制圧され、1808年から1814年まで半島に駐留されました。

現代スペイン建築物 スペインが現代の民主主義体制になって、まだ半世紀もたっていません(出典:papagnoc)

19世紀のスペインは政治的に不安定で、クーデターも何回か勃発しました。最初の共和制は、1873年から1875年の2年の短命に終わりました。議会制民主主義は、ミゲル・プリモ・デ・リベーラがクーデターを起こした1923年まで続きました。

同年には、フランコ将軍がスペイン外人部隊の司令官に任命されました。

ミゲル・プリモ・デ・リベーラの独裁政権は1923年から1930年まで続きました。軍隊による検閲、統制、議会の抑圧などの独裁的戦術は、ムッソリーニ政権からインスピレーションを得たものでした。ミゲル・プリモ・デ・リベーラは、スペインの国力と経済力を回復させるため、ナショナリズムの推進を目指しました。

しかし、彼の独裁政治はソフト路線であったため一般大衆からの支持が弱まり、最後には1929年に発生した世界恐慌が彼の政権にとどめを刺しました。リベーラは1930年に退陣すると、数週間後に亡命しました。

1931年に設立された第2共和政は、重要な社会改革を掲げた希望に満ちた政府に思われました。しかし、政治や思想の不一致や経済の壊滅により、1936年に反乱が勃発しました。

1936年、フランシスコ・フランコは右派を率いてクーデターを起こしました。10月1日、フランコは自らを「カウディーリョ(軍事指導者)」と名乗り、「スペイン共和派」に対するスペイン内乱に突入しました。フランコは1937年に国民政治党を統一して、国家元首の座に就きました。

国粋主義者、キリスト教プロパガンダ、ドイツのナチス党やイタリアのファシスト党からの支援を受け、1939年の戦争に勝利して、スペインの首相としての地位を固めました。

「フランシスコ・フランコ将軍は、スペインの神々からの恩恵を受けています」

彼の政権は36年も続きました。 逆説的ですが、彼の独裁政治は、世界に開かれた専制政治でした。フランコは現代の独裁者と同じく、経済の近代化を目指していました。

1975年にフランコが死去すると、スペイン王家のフアン・カルロスが王位に就きました。フアン・カルロスは首相のアドルフォ・スアレスと協力して、1976年から1982年まで民主化への移行に邁進しました。私たちが現在知っている民主主義国家のスペインは、まだ誕生したばかりです。

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